Silent Hill
2006年/アメリカ=日本=カナダ=フランス
監督:クリストフ・ガンズ
出演:ラダ・ミッチェル ショーン・ビーン ローリー・ホールデン デボラ・カーラ・アンガー キム・コーツ
一見すれば現代ぶった破廉恥からはもう卒業したいところだし、「完成された映画は古典にしか存在しない」なんていうニヒリズムは御免被りたい。しかしながら、最近の一部の日本映画やアメリカ映画を見ていると、現代性だとか古典的だとかいう言葉からは程遠いところでの是非が検討されている気がしてきて、どうにもやるせなくなる事がある。これが単なる郷愁で済ませられるならまだしも、例えばこの『サイレントヒル』を観ているときの、どうにも行き場のない不安というか脱力感を身に感じるにあたり、果たしてこれは「映画」なのだろうか?俺は「映画に似た何か」を見せられているんじゃないか?という、根源的な立ち返りへと回帰するとき、言いようのない不安に襲われることがある。最近の若いシネフィルなんかはこんな映画でもじっくりと咀嚼し、仮にその映画の出来不出来に一喜一憂することがあったとしても、しっかりと自分の映画的立場の中でのポジショニングを確保しているのだろうか。それはそれで歓迎すべき事だと思う。映画産業は、言葉を操る人間によって支えられているという側面があるからだ。ある映画について、良く言われるのも悪く言われるのも、それはそれで大切なことだと思う。
しかしながら、俺はこれを認めない。じゃあ何でダメなんだ、と訊かれても困るのだが、一言でいえば、この『サイレントヒル』は、近代の記憶を備えていない映画だからだ、とでも言おうか。なるほど、確かに画面はよくできている。巧妙にデジタル処理されたショックシーンの数々は、我々を驚かせるのに充分なのかもしれない。役者だって、よく頑張っていると思う。カメラの安定感だって捨てたものじゃない。
が、しかし、しかしである。この映画の元ネタである「サイレントヒル」というテレビゲームシリーズの一部を自分もプレイしたことがあるが、この映画は、他人のプレイしている「サイレントヒル」というゲームを、傍らで見ているという感覚にしかなれない映画なのだ。勇気を持って「こんなのは映画じゃない!」とまで言い切ってしまおう。郷愁だニヒリズムだと言われようが、映画オタクだと言われようが、俺は永久にこれを認めないだろう。そう、これは映画じゃなく、「映画に似た何か」でしかない!
俺が恐怖するのは、例えば20歳以下の若い人達がこの『サイレントヒル』や『20世紀少年』かなんかを観て、こういうものが映画なのだと思い込んでしまうことだ。まあ、戦前の日本映画や30~40年代ハリウッド全盛期の映画を観て「つまんね」なんてケッと唾を吐かれるのも寂しくもあるが、おそらく若者はそういう映画に触れる機会すらあるはずもなく、例えば、映画史に燦然と輝く大傑作であるオーソン・ウェルズの『市民ケーン』なんて、最近の若い映画ファンはどれだけ観ているのだろう? 職場近くの本屋で『市民ケーン』が300円で売られているのを見るにつけ、300円で『市民ケーン』DVDが手に入るウキウキ感と同時に、一抹の哀しさを感じてしまうのだ。
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