2009年9月26日

ゴダールのリア王

King Lear
1987年/アメリカ
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:ピーター・セラーズ モリー・リングウォルド バージェス・メレディス 
ジャン=リュック・ゴダール ジュリー・デルピー レオス・カラックス

ジガ・ヴェルトフ集団における映画への政治的アプローチから、商業映画回帰後のゴダールの、掛け値なしの最高傑作。極めて透明で、繊細な美しさをもった奇跡的なフィルムだ。

ドルビーサウンドを最大限に駆使した音楽の重厚感と、そして、鳥の囀り、オーケストラ、幾重にも重なるセリフと音。シェイクスピア5世を演じるピーター・セラーズ(『ピンクパンサー』シリーズやハル・アシュビー監督『チャンス』のセラーズとは全くの別人)の佇まいと、スープを啜る仕草、メモを取りながら歩く稀有な映画的存在感。どれもこれも素晴らしすぎて涙が出てくる。いつも思うのだが、ゴダール映画に出てくる人はどうしてこうも活き活きとしているのだろうか? 本当にすごい演出家だと思う。そう、例えば動物だ。動物は自分が今撮影されている映画にどのような形で加担しているかなんて判らないわけで、ゴダールは人間でも同じような演出をしたいのだろう。

最も判りやすい例はオムニバス映画『ロゴパグ』のゴダールのパート「新世界」。冒頭で、「女がいま横を向いた。特に意味はない」というようなカットが二度ほど繰り返される。断言してしまうが、実際にここでは深淵な意味なんか殆ど存在しない。「なぜ? 知るかそんなこと」。これがゴダールの一貫した俳優への演出方法だと思う。演出(つまるところ、演技指導と言ってもいい)をすればするほど、俳優は死んでしまう。ゴーストに成り果てる。それは、ブレッソンやカサヴェテスの映画で幾度となく証明された事実だ。

まあ、ストーリーは何が何やらよくわからず、「難解」というよりもかなり「錯綜」しているのだが、はっきり言えば映画の良し悪しにそんなことはツユほども関係ない。”教授”ゴダールが麻生元首相ばりに口を歪めてフランス訛りの激しい英語を披露するわけだが、映画の冒頭、キャノンフィルムやノーマン・メイラーとの確執が明らかにされ、マルセル・カルネ、トリュフォー、パゾリーニらの顔写真を次々と映し出しては、彼らに救いを求めるカットが連続するのが強烈に印象的だ。

製作がキャノンフィルムってことで、カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』もそうなのだが、何か版権の問題があるのだろうか、稀代の傑作がいまだにDVD化されていない。今のところ、10年以上前にソフト化されたVHSを見るしかないわけである。まあそれはいいとして、しかし一方、サッシャ・ギトリやルキノ・ヴィスコンティのみならず、ジャン・ルノワールさえ知らない人間がこの傑作に字幕をつけることが許されていいのだろうか?という根源的な疑問は残るわけだが。

そして、ゴダール最高傑作が「アメリカ映画」というのも、何とも皮肉な話ではないか!

★★★★★★★★★★

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